长野県佐久市臼田。千曲川の激流は、この静かな町と调和がとれていないような気がしました。
たぶん外国人がここに现れることは、あんまりないでしょう。私も竹内好と出会って7年间も経ってから、ようやく彼の生まれ故郷である旧臼田町を访れました。博士论文を提出して间もない顷でした。故郷といっても、彼は3歳から家族と东京に移住し、故郷の実感が乏しく、「若いころは、故郷などはクソクラエと思って」、「父や母が故郷に执着する気持ちを解しかねた」と回想しています。
この町では、かつて养蚕が盛んで、町中に茧を煮る独特なにおいが漂っていましたが、51歳の竹内好は何年ぶりに帰郷したとき、「一度も茧のにおいをかがなかった」と云いました。昔の日本は、どの町にも特有の匂いがしていたらしく、近代化の过程でひそかに消えいたようです。
后で分かりましたが、臼田は闯础齿础の宇宙空间観测所が设置されており、それに因んで日本人が発见した小惑星が命名されたほど有名だそうです。故郷の町が远い宇宙の惑星を媒介に想起されるとは、竹内好には思いも寄らなかったでしょうか。

千曲川 臼田にて撮影
広岛大学への留学は、半ば偶然であるように、竹内好との出会いも、半ば偶然です。
いまおしゃれな日本文化を研究したい若い人は多いですが、10年前までは、まだ日本の近代化成功物语に兴味を持つ留学生は多かったです。日本の近代化は明治维新から始まり、第二次世界大戦の大失败を挟んで、戦后においてまた大きな経済発展を成し遂げたという、振り返って思えば、祖国の未来に対する渇望が混じった幻想ではありますが、その幻想に立脚して研究を始めました。留学に来た最初の半年は、「文化受容の特质」や「宗教的観念の违い」を比较するなど、わけがわからない考えを指导教员の前で报告すると、さすがにあのやさしい先生もずっと眉を顰めていたのはいまだに覚えています。のんきに雑多な勉强をしている间、先生のゼミで竹内好の『日本とアジア』を読んだのです。
衝撃的でした。竹内の「近代とは何か」には、日本の近代化は所詮「优等生」の転向であり、鲁迅に代表される中国こそ、「自己を固执することで自己は変わる」という近代化の成功者であると、いささかポストモダンの匂いがする论述があります。
この「近代とは何か」は戦后多くの学者にとって研究の出発点でした。ヨーロッパの近代化と别に、「アジア」的近代を探りだすという発想は、すでに古くなったとはいえ、私にとって新鲜で魅力的でした。そこから开かれたのは、戦后の知识人たちが过去と现在の间で思想を通じて戦う知的世界であり、ナショナリズムのあり方やアジア主义の再検讨をめぐって、鲁迅、孙文、福沢諭吉、樽井藤吉、毛沢东など、知っている名前、知らない名前、また知ったぶりをした名前は次々と登场してきます。私は、その知识人たちによる真剣な戦いを记録した书物の中で、「アジア」という言叶の意味を迷いながら探求してきました。
ナショナリズムといえば、ナショナリズムの国から来た人间だと思われているのは、来日してから薄々と感じています。极端な、また耻ずかしいお话ですが、东北大学の鲁迅记念馆で「あなたは共产党に派遣されたエリートだろう」といわれ、苛ついて相手の年配な方と大喧哗したこともあります。さすがに留学を始めた顷は、ナショナリズムに染められていると気づきませんでしたが、あとでそれが自覚できてからも别に悪く思っていません。これも恐らく、竹内好に感谢しないといけないでしょう。
もちろん私は派遣されたわけでもなく、エリートでもありません。私の出身地はいま発展の最中に最も遅れている地域の一つとされている中国东北部の小さな町です。遅れると言っても、激変しています。松花江の支流である「辉発河」が流れていく风景は、私にとって唯一の懐かしい记忆となりました。そこには、果たして「アジア」は生きているだろうか、远い広岛の地で、时々思索に耽っています

绍兴?鲁迅旧居