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は、2025年3月5日(水)に、定例オンラインセミナー讲演会狈辞.177「広岛大学リテラシー共同研究プロジェクト公开ミーティング?第3回 リテラシー研究の连携可能性─外国语教育?多文化教育の観点から─」を开催しました。大学院生や研究者を中心に14名の皆様にご参加いただきました。
はじめに、教授(広岛大学)より、本セミナーの趣旨が次のように説明されました。
本プロジェクトでは、ことばの学习と教育の问题を広く「リテラシー」ととらえたうえで、発达的な困难さを持つ学习者の読解力の向上という问题に第一の焦点を当て、各领域の研究者がどのようにこの问题にアプローチすることができるかについて、议论をスタートさせた。今回は、外国语教育?多文化教育の観点から、二人の研究者の発言をもとに议论を行うが、それぞれが各领域の知识や理论について顺に述べるのではなく、二人が対话形式でお互いの考えを交わし、そうした议论に参加者が加わることで、多様な研究领域の交差点を探ることにする。
趣旨を説明する间瀬教授
次に、准教授(広岛大学)と、准教授(広岛大学)より、「多様な言语教育におけるリテラシーを考える」と题した対谈がなされました。松宫准教授の発言の趣旨は、次の通りです。
日本の英语教育には「英语は必要なものである」「英语は正しくなければならない」そして同时に「コミュニケーションで活用できる流畅さも必要である」といった考えがある。社会のグローバル化を背景に英语の必要性が主张され、また学校教育や受験等において実际に必要である现状もある。その一方で、础滨の発展により私たちがどのような英语力を身に付ける必要があるのか、については検讨の必要性も大きくなっている。英语が苦手な学习者が多い中、「グローバル化社会において英语は必须」という考えと、「翻訳/通訳机器も発达する中、果たしてすべての児童?生徒に英语习得が必要なのか」という相対する考えに向き合う时期に来ているといえるだろう。このような议论は実は新しいものではなく、1970年代にも「英语教育大论争」として参议院议员の平泉渉と上智大学教授の渡部昇一の间で书简を通した议论を交わされた。义务教育において高度な英语教育を行うのをやめ、义务教育段阶は简単な英语学习と世界の文化と言语を学ぶこととし、高校において希望者に対し密度の浓い英语教育を提供することを提案した平泉に対し、渡部は英语学习のもつ知的训练の役割は重要かつ学校教育の本质であると反论した。约50年前のこの议论は「谁が、どこまで、英语のどのような侧面を操れるようになるべきか」を考えさせるものであり、特に英语学习の过程およびコミュニケーション场面での意思疎通を助ける机器が発展してきている今日において、「学校英语教育の常识」を再考する必要性を投げかけていると考える。
平泉?渡部の论争の発端には英语教育の成果が上がっていないことがあり、この状况は残念ながら今日でも引き続きの课题となっている。その原因の中には入门期の音韵学习や音と文字の関连を学ぶ机会が十分でないこと等、指导の向上により改善が期待されるものもあるが、その一方で学习者の特性により学习やテストで十分な力を発挥できない実状もある。例えば文字を読むことが非常に苦手な学习者は、纸上で読んで书く形式の学习や评価は难しく、英语に苦手意识を持ってしまうだろう。文字だけでなく音声が共に提供されれば意味を理解することが可能な学习者は、「书かれた英文を訳せ」という问题では正解できなくても、音声があれば正解にたどり着ける可能性が高い。指导方法の改善とあわせて、これからの时代に本当に必要な英语力とはどのようなものなのかを考え続けることが重要である。
発表する南浦准教授
発表する松宫准教授
一方、南浦准教授の発言の趣旨は、次の通りです。
一口に「リテラシー」といっても、その内実は広い。とくに、本研究のプロジェクトのように多领域に関わる人たちが関わる场合、それぞれが「どのような立场で」「どのような目的で」「どんなリテラシーを想定するか」ということをふまえなければ相互の実践も研究も対话をなさないことは多くある。「困难さ」も同様にそうした立场性と目的性をふまえなければ行為の意义も読み取れない。これは外国につながる子どもたちを想定した场合においても同様である。
例えば、Gardozo-Gaibisso & Harman(2019)は、リテラシーを、「①道具としてのリテラシー」「②分野?領域特有のリテラシー」「③探究としてのリテラシー」「④イデオロギーとしてのリテラシー」の4つに分類している。①は教え?学ぶことを通して、すべての教科領域で活用できるスキルとして捉えるものであり、②はそれぞれの分野?領域ごとにある特定の談話規範を意識したリテラシーとして、③は単に読む?書くと言うことだけに留まらない、深い思考力をリテラシーとして含み込んで捉えるものである。また、さらに④は、そうした①②③自体が1つのイデオロギー的構築物と捉え、とくにマイノリティを見すえたときに、ある支配的な視点から社会的につくられた構築物としてリテラシーを捉え、その規範自体を捉えなおすものとしてみるものである。
こうした視点は、「困難さ」を単に特定の子どもたちの個人に返す問題としてみるのではなく、その困難さの在処を社会のありかたのほうに置く点で重要である。外国につながる子どもたちのことで言えば、例えば「日本语能力の不足」という問題は、「日本语ができない子ども」の問題としてみることもできれば、日本语を前提とした学校教育の問題として見ることもできる。学校で求められるリテラシーは、ある種エリート的階級のつくった産物だと見ることもできそこには社会階層の問題を無視することになるかもしれない。「手書き前提」のリテラシーは、「タイピング」の世界の存在を無視しているかもしれない。こうした前提を捉えなおすことによって、そもそも「リテラシー」をめぐる困難さは別の視点が見えてくるのである。
こうしたリテラシーをイデオロギー的構築物であると見なすことは、社会的解放としてみることができる一方で、社会的適応の側面を軽視しているともいえる。外国につながる子どもたちをめぐっては、北米においてバイリンガリズムを重視するGarciaとそれに理解をしながらも社会的道具としての言語活用を重視するCummins の間で論争が起こっている(Cummins, 2022)。このように、多文化教育をめぐっても、言語と社会の関係性の中で社会的適応を重視するか、社会的解放を重視するかによって育成したいリテラシーは変わってくる。
こうした原理的视点を共有しながらでなければ、「困难さ」と「リテラシー」の研究も実践も、対応的なものにはなっても、カリキュラム的视座を持った学校づくりにはつながらないだろう。
こうした二人の対谈に参加者も加わる形でディスカッションが行われました。その中で、教授(広岛大学)から、本セミナーの意义及び课题について発言がありました。その概要は、次のようなものでした。
本研究プロジェクトの最大の特徴は、リテラシー教育研究に异なる観点から関わっている研究者が、読解の困难さの様相をより俯瞰的に把握し、解消を目指すべく连携している点である。「読解の困难さ」は、それほど広大な研究课题には见えないが、実际には、研究领域によって、発达段阶や校种によって、文化によって、状况によって、それぞれ异なる研究が进んでおり、それらは互いに必ずしも连携されない。本研究プロジェクトのメンバーも、それぞれの分野で研究を続けてきているが故に、他の分野における「読解の困难さ」について、どのような困难さが生じているか、その解消に向けてどのような取り组みがなされているかを容易には把握しきれていなかった。しかし、ある分野で研究されている「読解の困难さ」の様相や、ある発达段阶で行われる困难さへの介入を、他の分野?场面等で活かせるケースは多いはずである。また、各専门家が、専门家であるが故に気づかない课题や见方に、他分野の専门家が気づくこともある。例えば外国をルーツとする児童生徒のリテラシー教育における困难さの様相を知ることで、中等教育における英语教育における困难さの解消の糸口がつかめるかもしれない。各発达段阶でのディスレクシアへの介入に関する研究知见が、高等学校における読解の困难さの测定のヒントになるかもしれない。认知科学の分野で解明される読解方略の知见が、国语の试験の妥当性に新たな疑问を投げかけることもあるかもしれない。
このように本研究プロジェクトでは、本学教育学部のメンバーだけでも多様な観点からリテラシー教育研究に取り組むことが可能であることを明らかにした。これは、教科教育学、日本语教育学、特別支援教育学、心理学といった分野が同一学部に共存している本学教育学部の強みである。とはいえ、本年度の取り組みは、まだ、連携の可能性を見出す地点にとどまっており、学際的リテラシー教育研究の端緒にすぎない。将来的には、複数領域の研究者や実践の連携によって、読解の困難さの測定や解消のための新たなメソッドの開発、さらには「読解の困難さ」の捉え直しが生じることも期待される。
最后に、间瀬教授より、本セミナーのまとめと2025年度も公开ミーティングを続けて行きたいという旨の発言がありました。
当日の様子はこちらをご覧ください。
広島大学教育ヴィジョン研究センター(EVRI) 事務室