试験等で最先端の学识が问われるのであれば、そのための学修は、十分に基本的な知识を理解し、それを利用でき、その応用に鋭い感覚を持った仲间との议论が不可欠でしょう。しかし、そうではなく、基础的知识を理解しそれを使う基本的スキームが问われる试験では、じぶんがわかったつもりになっていることに気づく机会を提供してくれる仲间が贵重な存在となります。自分の思考の弱点や癖は自分ではなかなか気づきにくいものです。だから、试験でそのような盲点のない学修をできる人を选ぶのでしょう。
最近は、基础の理解を问いただす学生が少ないようです。こんなことも知らないのかと他の学生に思われるのが嫌なのでしょうか???。しかし、その学生が発する疑问は、いろいろであっても、ひとつひとつを短时间の内に探ってその疑问を解消させようとするプロセスに、回答する侧の理解を深めるヒントが隠れています。それに気づくと、初心者と话す机会を求めたり、ゼミに诱ったりするようになります。もちろん、そのような机会を提供してもらえるのですから、少しばかり勉强している者は、その知识を惜しむことなく出すようになります。そのなかで新たな误解が発见されたり、より深い理解を得たりと、楽しいと感じることが増えていきます。学ぶことの楽しさの一つかもしれません。少しずつでもゼミのレベルが上がって行きますから、自分のレベルをより高める努力も必要です。锻えられますね。
自分がわからないことを他人から得ようとする一心で勉强すると、自分のわからない点が受け売りでも、らしい回答を得ることで、隙间が埋められたという満足感はあるのかもしれません。でも、他人からの受け売りがその理解につながるとは一概には言えませんし、足元を见ることなく目先ばかり见ているので、躓いてこけたり、穴に落ちるかもしれないとは考えてもいないでしょう。第叁者といえどもハラハラドキドキです。注意しても本人は前しか见ていないから、足元に落とし穴があると言っても闻く耳を持たないので、しばらく傍観せざるをえない。この间に大事にならないようにと祈るだけです。
仏教の説话によると、饿鬼界では、1mほどの箸が食事に用意されていて、これを使って自分だけが食事を口に运ぼうとするために、结局食べることができず飢えの苦しみに身を焼かれるそうです。苦の世界です。菩萨界では、その长い箸を使って目の前の菩萨に食べさせてあげようとしますから、お互いに食事を进めることができます。喜びの世界です。饿鬼はガリガリ(我利我利)亡者、菩萨は利他心にあふれる存在、その违いです。
他人を喜ばせることから「徳」が生じ、「徳」があるゆえに「运」が巡ってきます。试験は水物と言われるように、运が少しは(多いにということもある)左右すると考えているのであれば、その试験の本质をとらえてそれに合った勉学法を选択し、そのうえで他人から试験に好都合なものを得ようとばかり考えずに、自分で他人に提供できるものを増やして惜しみなく差し出すことを心がけてもよいかもしれません。他人に提供しようと思えば、そのために勉强することは自己満足のレベルにとどまらないですから。
次回は「囲碁」です。
