囲碁の世界は、昨年3月に世界トップ棋士がグーグルのアルファ碁に败れたことで雷撃を受けたようなショッキングな状况となっているそうです。5局対戦して、トップ棋士はわずか1胜を挙げたのみでした。囲碁は盘面の広さから局面の创造域が多様多彩で、手の选択の幅が広く、人工知能がいかに発达したとしても、トップ棋士に胜つにはまだまだ时间が掛かると言われていました。囲碁を少しばかり勉强し、少しはまっとうな手が打てるようになりたいと思うにすぎない私にとっても衝撃的でしたし、その打ち回しを见るかぎり、自由な构想と思える手の选択に人工知能の进化が感じられ、そのスピードには惊嘆せざるを得ません。
将棋界でも、今年、棋戦において、名人が人工知能に连败しています(この棋戦はなくなったとか)。名人が序盘から押されて败れ、终盘まで有利な局面を维持しながら逆転を许して败れたと闻きます。人工知能が序盘に指す自由な手に対応することが难しく、少々の驹损をしてもより効率的に驹组みをなし次の戦况を有利に変えていくことにも、煌きがあるようです。プロ棋士と対戦するよりも、人工知能との対戦で学ぶことが多いとして锻錬の场を従前とは违った方向に求めるプロ棋士もあるそうです。
囲碁はすべての戦いが手顺を同じくすることがないほど、二人の棋士による対局は创造性が豊かです。囲碁も胜负をかける以上、几多の戦いの中から胜利を呼び込むためのデータ分析が必要です。ただ同时に、どんな手を打ってでも胜てばよいというわけでもなく、石の形という美的な感覚も尊重されています。それは、盘上に展开される芸术でありつつ、胜つための人间の智慧の凝缩であると思います。人间の智慧は洗练されたものでしょうが、愚形を嫌うなどの制约を受けていることも确かです。それゆえ、自由な発想の手が思いつかないこともあるように思います。それが人工知能では别の胜利法则に従うゆえに、人间の智慧では构想から外れる手も打たれ、新鲜さを感じるのかもしれません。人间の智慧と人工知能との対决は、人间の智慧に自由と创造を与える切磋琢磨として兴味深いものです。
囲碁を始めたころ、私にとって最も不思议なことは、300手を超えるような1局でさえ、その対局を振り返るために并べ直すことができることでした。しかし、それは囲碁にのめり込むうちに当然のことと感じられました。当初の构想から序盘を组み立て、中盘から终盘にかけては局面ごとに自らが最善手と思われる手を何度も読みを重ねて选択し、その検証を繰り返して1局の碁が完成するのです。対戦相手との合理的な対话の积み重ねとして、最初から1つ1つ刻まれた言叶(打ち手)はリフレーズできるものだったのです。プロ棋士に「强くなると自然に并べ直せるし、他人の棋谱でも同じことができる。それは棋力のバロメーターである。」と言われた通りでした。どの世界でも、プロフェッショナルは自らの力量を上げるための反省の技法を持っているものなのです。
最近は、自分の授业が合理性の连锁により綺丽に再现できるものかどうかが気になっています。これも锻錬が必要ですね。
次回は盂兰盆会です。
