ロー?スクールで教鞭をとる教授から、「社会にはさまざまな思惑からフェイク?ニュースがSNS上に溢れ、大量の情报から真実を选び出すことが至难の业になりつつある、そのなかで社会はこれまで経験したことのない问题に直面することになるだろうが、それに适切に対応すべき法律家を育てるにはやはりソクラテスメソッド? でも、このメソッドはすっかり廃れてしまったけれども、復活させることはできるのか?」と寻ねられました。
この质问に答えるには、ソクラテスの问答法の特性を知ることが肝要です。その特性を知れば、教育法としてなぜ廃れた(?)のか、その原因も予测がつきます。
ソクラテスは、人间の贤明さは自らの无知を自覚することに気づきます(无知の知)。それは、ソフィスト等を相手に无知の仮面をつけて、その自説を述べさせながら、「とは何か」の质问を繰り返し、ついには矛盾に引き入れ行き詰まらせ、その知识の空しいことを露呈させるなどするなかでの确信です。知识は、所有する者から所有しない者に手渡される物品のようなものではなく、各人がすでに自分自身のうちに可能性をもって所有しているものですが、しかし、自分の力だけで生み出すことは困难であって、この知识を生み出すためには他の援助を必要とします。知は想起なのです。ソクラテスの対话はその援助であって、「助产术」と自ら称しました。ソフィストは、意见を戦わせて、一方のものをして他方のものを打ち负かしてしまいますが、ソクラテスはたがいに対立する意见でも、その中にどこまでも共通のものを求め、最后に普遍的定义に到达することを期待している点に特徴があります。
ソクラテスは「徳は知である」とする一方、「徳を教えることはできない」とも述べています。当时の「徳」は、伦理的なものだけではなく、建筑や弁论などの技术における有能さや卓越さも意味していました。技术においてはその有能さはそれにつき正しい知识を有することですから、これを人间の生活一般に拡げ、生き方につき正しい知识を有する人间が有徳な生活を送ることができるとします。正义の理论を知ることと正しい人になることとは明らかに违うことから、ソクラテスが言う「知る」とは単に知识として头に入れることだけではなく、それに基づいた行动を起こす心の転换を伴うことです。心を転换して有徳な行动をとることができなければ「知った」とは言えず、无知なままです。
ソフィストが教える弁论术のように、技术を知ることは头で理解すれば修得できますが、主体の心の転换を要しないので、诚実な人でも狡猾な人でも同じように弁论术を修得できます。ですから、教えることができるのです。しかし、心の転换を要するとすれば、その主体自らが行うことなくしてはなしえないことですので、教えることはできません。ソクラテスは、自分の思惟の活动によって生み出した知识のみがその人の真の知识であり、その内面的自覚をもって行动に移す心の転换を果たすことを「知」に求めるのです。
ソクラテスもおそらく対话を通じて确信を得て、人间が知るべきことがあるとして市民に対する问答を繰り返すという行动に迈进したのでしょう。
次回は、雨降って地固まる(2?终)です。
