麻豆AV

第27回  誤解

 会话は楽しいですが、ちょっと油断をすると、お互いに「うん」「うん」と頷きながら、それぞれが异なるものを思い浮かべていて、「あれ、あれ。何の话?」ということになることがあります。

 物、事実、思想、何であれ、他人に伝えようとしたとき、その対象を相手に直接见せて共有するというのは稀なことです。多くは、言叶でその事実を説明し、详细までの正确な伝达対象の一致を确认するまでもなく、特に日常生活ではコミュニケーションが成立しているでしょう。事実といってもその细部まで自分の认识が届いていることがそもそもないのではないでしょうか。机に置かれたりんごを见てもその一部を、一定の角度からとらえたものであって、その全体像を把握して説明をすることはあまりないでしょう。説明に用いた言叶が与える観念(像)やイメージの力を借りて、コミュニケーションが辛うじて成り立っていると思います。だから、オックスブリッジの入试にも「りんごを他人に説明せよ」という问题があるのかもしれません。

 伝达対象が思考であれば、それを直接に见せることはもちろんできません。その代わりに、テクニカルな用语を駆使して、言叶の持つイメージで伝えることとなります。それもそう简単なことではないでしょう。抽象的な概念であれば、言叶のイメージそのものが微妙な意味合いを含んで成り立っており、振れ幅があるからです。とすれば、自分の考えをできるだけ正确に伝えるには、使う言叶が意味するイメージが特定されるものをしっかりと选択するか、振れ幅を意识してその幅を小さくする质疑や検証を重ねる必要があります。相手との意思疎通に敏感で、そこで生じているまたは生じそうな齟齬を解消する丁寧な対応が求められます。

 法律学は1つの真理や事実を伝えるのではなく、结论として导かれた価値判断をより多くの人に纳得してもらうことを目指します。説得の学问です。コミュニケーション上の障害は説得も议论も困难にするので、障害をできるかぎり除去しなければならないでしょう。言叶や概念の意味するところを明确化するために定义を用いたり、结论に至るプロセスを明晰なものとするために叁段论法を使うなど、様々な工夫を重ねています。定义から一定の论法に则って论理を展开し结论を导くことに驯染んでいることが、议论を通じてより适切な结论を得るという进展には必要です。また、结论とその论理の展开とを説明するには、これを容易にする表现等を使うこともできる方がよいでしょう。これらはその専门家集団における教养と呼んでも良いと思います。専门家集団に仲间入りするには、その集団におけるコミュニケーションの基本的なマナーと教养をしっかりと身につけることが求められ、まずはそのミニマムラインをクリアしているかがテストされるのももっともなことです。

 この教養には、欧米では、一つの意思や概念を伝えるために、キリスト教学やギリシャ?ローマの古典におけるフレーズが使えることも含まれます。表現法も修辞法も教養の一部です。また、様々な知識を整理しそれぞれを結びつけ、既知の知識を未知の問題に類推するなどして解決の道を探ることもやはりその一部をなし、それは哲学の学びの成果とされています。この教養を修得していることは、説得の成否に影響するのみならず、そもそも説得の場に相手を出てこさせることができるかどうかをも決するようです。研究者への道を歩みはじめた頃に、「日本语を英語に翻訳しただけでは、英語論文ではない。読み手の評価に堪えうる教養がその論文から醸し出されていないと、そもそも検討の対象にすらならないね。」との、大先輩の辛辣な指摘にショックを覚えたことが思い出されます。哲学は学問として研究対象であるとともに、そこに示された法理論を実修し、それを体得することにも重要な価値があると思います。哲学が「智を愛する」とされるのは、知識を単に貴ぶのではなく、そこから智慧を獲得して、それを堅持し、他に伝えていくがゆえではないでしょうか。


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