麻豆AV

第52回 时间との対话

 秋の风情が感じられる日々です。まだまだ日中は暑いのですが、朝夕は随分过ごしやすくなり、肌寒く思うこともあります。苍い空にはうろこ云やいわし云も见られ、澄んだ夜空には煌々と月が辉き、无数の星も美しい光を放っています。

 何とは无しにかつて运命学や仏教の本を読み考えていたことを思い出しました。

 秋のお彼岸も良いお日和でした。お彼岸は、娑婆世界である此岸から仏界である彼の岸に想いを寄せ、そこへの転生を愿う时なのだそうです。彼岸と此岸の间には何があるのでしょうか? 岸から岸へと渡って行けるのであれば、时间の长短や労力の大小があっても量的相违にすぎませんから、何とかなるのではないかと甘いことを考えたことがあります。

 しかし、ここには叁瀬川、いわゆる叁途の川があるのだそうです。人が死んで亡者となると阿鼻野街道を他の亡者とともに列を成してあるいていきます。着くのは赛の河原です。荒凉とした无惨な场所のようです。亡者は烟ってよく见えない彼岸を目指して叁瀬川を飞び越えようとするのですが、3つの大きな流れのどれかに引き込まれて流されて行きます。その亡者が娑婆世界で积んだ罪业により、叁悪趣、つまり地狱界、饿鬼界、畜生界へと流されていくのです。その先では、身に背负った罪障や他からの怨み辛みを消灭させるだけの苦しみを途方もなく永い时间の単位のなかで自ら受け続けることとなります。次における因果応报です。

 では、叁瀬川を飞び越えて彼岸に达するにはどうすれば良いのでしょうか? 赛の河原でもチャンスはあるようです。亡者が生きていた顷に执着していたものを死んでも必死に握りしめ身につけ背负ってくるようです。そのようなものというかその执着心を持ったままではとても飞び越えることができないので、脱衣婆(菩萨様の化身でしょう)が、それらを置いて行くように、あるいは无理にでも剥ぎ取ろうとするのですが、まさに后生大事に抱え込んでそのまま此岸から飞んで、川に吸い込まれるように消えてしまいます。

 赛の河原では娑婆世界で生きていた顷の习気で、あるいはその时の行いの报いで执着を断てないのであれば、まさに现在なら、来る日も来る日も人间馒头にされる痛みを肉体による制约なく味合わされる程の苦しみまではないので、何とかしようと思います。

 饿鬼界との縁が强くありますので、饿鬼界での业の消灭がいかになされるかがヒントです。お盆のいわれであるウランバーナ(倒悬)がすぐに思い浮かびます。逆さ吊りにされると大変苦しいのですが、その苦しみを毎日毎日受けるのが饿鬼界です。娑婆世界で生きる际に世の中の実相を正しく见ることができず、逆さまに捉えることで无茶苦茶をやった罪业が饿鬼界との因縁を生じさせるのではないか、そういえば、般若心経には「远离一切転倒梦想」という一节があったではないか、他人を责めてもその人を自分の周囲に集めているのは自分の因縁なのであって、他人をどうこうしようとするのはまさに逆さまに见て梦の世界にいる、自分が変わらなければまた别の人で同じ思いをすることとなる、自分が変わった方が早いのだと考え実践しようとしているのですが、なかなか厳しいですね。

 これが数十年前に私が体験した时间との対话です。运命学や仏教を学んでいて良かったとつくづく思いましたし、今もその思いは変わりません。
 次回は「真剣を振る」です。


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