麻豆AV

第6回 镜 (1)

 学びにより自己変革を起こす。学びは単に知识量を増やして当面の课题に対処するというだけではなく、そのプロセスにおいて自らにより适切なスキルを得る、工夫するとか、次の学びを生み出すための何かを获得する必要があります。学びは连绵と続くものだから、その流れを少しでもスムーズになるように、自らを変化させることが重要なのです。

 知识量を増やすことは、これまで知らなかったことで対処できなかったことにうまく応じることができることにより、短期间のうちに自ら勉强の成果を感じることができます。更なる勉学意欲を唤起することも期待できます。そもそも入学试験にしても何にしても试験と名がつけば、少なくともこれまでは知识量で胜败が决するという内容であり方法でしたから、勉强は知识量を増やすことで割り切ることもやむを得なかったのかもしれません。
しかし、その勉强法がその主体の持つ力を押さえつけて伸びしろを失わせ、缩こまらせる结果を生んでしまっているとの指摘が繰り返されています。コピーはできても创造はできない、见ても目に留まらず违いにあるいは不合理に気づかない、相対的なことを不安に感じ絶対的なものを求める???などなど。

 高学歴で高度な知识を人并み以上に持っている人が「なぜこんなことを?」という事态を引き起こして自らの人生を棒に振ることがしばしばあります。他方、决して知识が多いとは言えない人が他人に好かれ支えられて幸せに生きていることを耳にすることも多いのです。前者については「学问的な知识はあっても、生きる知恵がない」と言われます。

 知识は、高い教育を受けて多くを持つことができるし、现代社会では特にさまざまな情报通信机器が発展し広く行き渡っているので、谁でもいくらでも集められ手にすることができます。豊富な知识で成功を収めようとしても、知识集めはせいぜい头脳を発达させるにとどまり、わがままで他人に思いやりがない、すぐに嫉妬してしまう、猜疑心が强くて扬げ足を取っては批判ばかりを繰り返す、他人の心を伤つけるような言动を平気でするなど、感情をむき出しにしていては、人の上に立って世の役に立つことはできないでしょう。心が未熟なままでは知识を使うことが妨げられてしまうからです。知识量が多くてものを多く知っていてもそれは「もの知り」であって、决して「贤い」とは言わないのです。

 学びによる自己変革として何が获得できるかは、学びのなかで自分自身を省察する机会を逃すことなく、自分自身を如実に観ずることが决め手です。勉学するなかでは、いろいろな葛藤が生じてくると思います。その心の葛藤をありのままに把握し、その実相に迫って克服する努力をしなければなりません。ありのままに把握しようとするとき、自分の心のなかにある、贪り、怒りや愚痴が、それを邪魔していることに気づくでしょう。水面に自らの姿を写そうとしたときに、水が浊っていたり、グツグツと沸腾していたり、苔や草で覆われていれば、何ものもありのままには映りません。心が澄み切っていなければ、自らを映し出す镜があっても、真の姿を捉えられず、学びの机会を逸するのです。(続く)

 次回のタイトルは、镜(2)です。

 


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