勉强することは、知识量を増やすだけではなく、勉强主体の学修力のレベルをアップさせることにつながる学びの修得でなければならないと考えています。勉强を学びの修得に転换するのは転移の技法です。学びの転移を図るには、学修の多面性と复层性を见极めて転移可能かを判断する必要がありますから、区别の技法を必然的に伴うこととなります。
ある知识を得、それを使って问题を解决しようとする场合には、その知识がその问题に使えるのか、使うとすればどのように使うのかが常に问われます。その意味では、転移の技法と区别の技法は既存の知识の活用に不可欠でしょう。
残念ながら、最近は、この2つの技法を用いることで、基础的知识が十全なものへと质的に変化することを経験的に知る学生が急减しているようです。それゆえ、多くの学生は基础的知识を量的にのみ捉え、それだけでは不十分であると言い、个别具体的な知识の活用场面すら知识として获得しようとします。知识の活用场面が特定されて个别化するがゆえに、知识がバラバラでつなげることができず、膨大な量を习得(记忆)しなければならないと、悲愴感を漂わせて嘆かれることもあります。
この状况に小器用に対処する学生もいます。その小器用さが迅速性と効率性を追い求めて结果を出すことのなかで得られたものであるため、先例をモデルにパターン化することが多く、新たな问题に直面した场合には强引に割り切ってしまうこともしばしばです。
勉强が知识量の多寡に重きを置くことで、知识を活用するための技法の修得やその実践によって锻えられる能力の高さが问われないために、能力の向上によって知识量頼みから逃れ、その量を逆に押さえこみ、能力をさらに引き上げることに时间とエネルギーを投入できることに気づかないままになりがちです。
本来、勉强は転移の技法と区别の技法を修得することを勉めて强いられているのではないかと思います。潜在的な能力を引き出し锻えるには、何か困难なこと、厄介なことや面倒なことに直面したときがチャンスであり、それを乗り越えようという强い意志のもとに行动することが必要です。
法科大学院での教育は法曹养成プロセスの一端を担うものとして制度设计されています。そのプロセスは法学部におけるいわゆる法曹コースとの5年一贯型教育の导入により前倒しされ、プロセスの时间轴に修正が加えられています。
変わらない点もあります。法科大学院入试、司法试験やいわゆる2回试験といったペーパー试験が节目节目に课されますし、学部や法科大学院在学中には予备试験の受験机会も与えられています。これらの试験は法曹の资质と能力を锻えるプロセスにあるチェックポイントであって、道を误らないように配虑されたもので、それぞれ试験が时期に応じて求められる方向性を示唆するように设定されます。その趣旨を正しく理解することが课题ですから、自らの潜在能力を引き出す机会となり、学びの技法を修得して、生涯、プロフェッショナルとしての职责を果たすべく学び続ける力量が得られるでしょう。プロセスをプロセスとして捉える学修です。
これらの试験が独立したハードルにすぎないと考えれば、大学受験等と同じく、合格すればよいということで合格结果のみが追い求められます。试験に対する目的意识が同じなので、従前の経験に照らしてこれらの试験にも対応するでしょうから、合格するための迅速で効率的な方法とおぼしきものを真似るのに必死です。これさえ书けばどのような事例でも大丈夫という论述があると思い、それを必死に探します。それは一见普遍性を求めているかのように思えますが、それは表层的なところでの普遍性であって、本质の探究によるものではないために、実际には点で分断された学习にととどまっています。
法曹コースでは、大学に入学して间もないころから早期卒业を目指し5年一贯型の法科大学院入试に応じた学习が目指され、学部成绩(特に厳格な成绩评価が条件とされる场合)がものをいう5年一贯型入试に対しては、学部试験で优秀な成绩を上げることが至上目的となりがちです。実际、授业で示された议论をそのまま覚えて答案に书くと评価されるので、そのような勉强がなされていると闻くこともしばしばです。
法曹コースでの勉学がこのような学习法に陥らず、これまでの学习姿势を変革し、点をつなぐプロセスを意识させた学修法を学ぶよう指导されることが期待されます。法科大学院からもそのような学修を指导する机会を提供し协力させていただきたいところです。
転移の技法や区别の技法を修得しようと自分一人で学ぼうとした経験(独学経験)がなければ、仲间が集まって议论することのありがたさもわからないでしょう。1人で学ぶことがあれば、仲间の意见が自分自身の勉学や思考を検証する契机となり、「区别する」「つなげる」「転移させる」というプロセスを発见したり、见直したりすることそのものが学修となります。しかし、独学が试みられていなければ、教えられる机会のみを重视します。议论における他者の疑问は教えられる机会とは捉えられず、学习は个々の事象のつながりを欠いた表层的な理解で终わってしまい、难题に立ち向かうことで何かを生み出す机会を失い、社会にとって不利益を积み重ねていくことに気づかないでしょう。
结果を追い求めれば、教える侧にも同じことが起こります。とにかく、いついつまでにこれくらいの结果を残さなければならないとなれば、その结果がゴールとなってしまい、プロセスにおける通过点という认识はそっちのけになりかねません。学生も长い期间勉学を重ねてきているのが通常ですから、その间における学习経験を押さえながら、その勉学に何を新たに取り込みどこを强化すれば学习から学修へと质の転换を生じさられるかを慎重に考え、学生を自力で歩かせながら、持てる能力を発挥させて成果を上げ、考えることに自信を持つに至らせる、それが専门职大学院における人材の养成だと思います。
