水が浊っていず、沸腾しておらず、苔や草に覆われていなければ、人はいつでもそこに自らの姿を映してありのままに见ることができます。水面を镜としてありのままに映ったその姿を正しく観察できるかどうかはまた别の问题です。ありのままに映った姿をそのまま観察し正しく认识するには、観察者に怒り、欲望や愚痴がなく澄み切った心境であることも必要です。知识の活用が感情によって阻害されるように。
自らの姿を映し出す镜はいろいろあるようです。「子は亲の镜」と言われます。亲の遗伝子を引き継いでいるから身体的な特徴が似ていることはもちろん、幼いころから亲からさまざまな生活の知恵を学ぶとともに、亲の価値観も子どもに刷り込まれていくこともあるのでしょう。长年共に暮らす夫妇は容貌やしぐさ、性格まで似てくるとも言われます。その理由は、シンクロニー现象(好意を持つ者同士において相手との関係がこれからもずっと続いてほしいという欲求の表れ)とか、ミラーニューロン(他者のある动作を见たとき、自分もその动作をしているかのように镜のように反応する神経细胞)効果とか、いろいろ説明がなされているようです。
いずれにせよ、子供、亲、配偶者や恋人など身近な存在に自らの姿を垣间见る机会が与えられています。子供の态度を叱责することが必要な场合であっても、一方的に非难するだけでは「それもこれもあなたから受け継いだもの」との痛言を招き、それぞれの感情をぶつける事态に陥ってしまう、お互いに相手の非を责めたてるだけの口喧哗で终わってしまうことのないように、子供と同じような态度を自らが子供に対してあるいは子供の目に入るところで取っていないかを振り返って、心当たりがあればそれを変えていく方が早く変化するかもしれません(「他人を変えようとするより、自分が変わった方が早い」とはしばしば耳にするところです)。これも学び(で得た知识の活用)がなせる自己変革でしょう。
学生の授业や试験に対する姿势や态度を见ていて、教える侧のそれを映し出す镜であるように感じられます。最近読んだ新书のなかで、「日本の教育は服従型の教えをよしとしています。学校では、『先生の言うことをキチンと闻いて学びなさい』というシステムが当たり前とされていますから、たとえばABCDのうちどれかを选ばなければならなくなった际、先生がAが正しいと言えばAを、Bが正しいと言えばBを选択し、それ以外の答えは间违っているとなるわけです。こうした教えを日本ではよしとし、彻底的に子供たちに植えつけさせます。」との一节が目に留まりました。教えられたことを従顺に受け入れる、それが成绩良好と评価されるようです。そこでは、教える侧は学生を通じて自分の教えを见、学生が澄み切った镜であることのみを求めているのではないでしょうか。
法科大学院では、法曹が社会における不合理を自ら見つけそれを法的手段で是正することも求められる以上、課題発見能力の鍛錬が不可欠です。鏡であることに徹する学生は誰かがそれが不合理であると教えないかぎり、不合理との判断に自ら達することはできないのではないでしょうか???。 (つづく)
次回は、镜(3终)です。
