囲碁で気分転换しようとすると、一手で局面ががらりと変わることがあります(気分転换にならないのですが……)。定石や手筋とか既存の知识に乗っかって数手先まで読んでいることもありますが、やはりその一手をその场でその时に考えることは不可欠のようです。それは当たり前のことなのですが、この手に集中して考えるよりもその前に打った手にこだわってしまって、あるいは相手の応手に惑わされて、つまり过去に囚われて、今、目の前の局面において自分の打つべき手を考えるべきところに心あらずとなり、その一手で局面を悪くしてしまいます。この一手に集中しなすべきことをよく知り、それを実践することが大事だと痛感します。
縁起の法を学んだ时も、すべてが因縁果报の繰り返しで展开していくから、良い「因」が良「縁」と结び良い结「果」を生み、良い「报」いを受ける、逆も真なりと理解しました。その学びが「いま」に集中してなすべきことをなすという行动につながりません。「因」が过去における因縁による果报であり、今それに悩まされていると反省します。
しかし、翻ってみれば、今现在なしたことがすぐに过去となって新たな果报へ、因縁へとつながるのであれば、いまこのときに良いことを行っておけば変化のタネをまくことになるのではないでしょうか。过去に囚われれば、囲碁と同じく、局面を悪化させ、负のスパイラルに陥ります。いまこの瞬间に良き果报を齎す行為を选択できるかは、知识ではなく、智慧だと思います。知识では思い起こしている间に时宜を失してしまいますので、この瞬间になすべきことをなさせるのは智慧でしょう。仏法が智慧获得を目指すのもそのためではないかと思います。
智慧を获得するまでは、他人に感谢されることを行うことを行动の选択ポイントにしておきます。目の见えない修行者が、缝物をしようとして、针に糸を通してほしいと周りに声をかけた际に、すぐにその针と糸を取って通したのは釈尊でした。その修行者は大変恐れ多いことと思い、修行者に徳积みとしてお愿いした旨を述べたようですが、釈尊はこれに徳を积むことを最も爱するのは仏陀であると答えられたとの法话があります。その行动が良いか悪いかを判断するのが难しいので、何も考えずに徳を积むことを选ぶことを説き、自らも実践しておられたのでしょう。
过去の因縁に囚われその果报でがんじがらめになっているのに、その自分が纳得しなければ行动を起こさないというのでは、それがいくら合理的な态度だと言っても、所詮因縁の块がその因縁の枠のなかで自己満足しているにすぎません。これまでの结果なりに満足できないというのであれば、その结果を生み出した自分の因縁を超えること、おそらく纳得しがたいことを実行することで変化を生むと思います。何かを変えたいと真に思うのであれば、现在の自分が纳得する枠を超えて飞跃する、そしてやってみるしかないでしょう。
最近はやりのイノベーションとかさまざまな改革も、理论や理屈を先に出さずに自らの考えの枠の外に飞び出してこそのもので、まさに飞跃のうえに成り立つと思います。
先生は教える何かを持っているから学生に対してその立场にあります。その何かは学生が飞跃すべき时にその飞跃に最も适した「すべ」であり、身をもって実践しつつそれを伝えられるようありたいと思います。そのために学び続けなければなりません。
次回は「二の矢」です。
