この质问を受けることが时々あります。かつては何を今更と思うことがあったのですが、最近は质问するだけ伟いなと感じます。
やみくもに色々な情报源から得た勉强法からこれはというものを试し、そのうち成果が出るだろうと期待して、あるいはすでに成果が得られていると确信して、顽张っていると、なかなか他人に意见を闻こうとは思わないようです。勉强しているのだからいいでしょ、多くの法的知识も集积していて短答问题もすらすら解けるんだし、顺调ですから、横から口を挟まないで、という人を寄せつけない空気が张り詰めています。
そういう状况では个别に声をかけてもまず闻いてもらえないので、全体に対して、いま皆さん顽张っていると思いますけど(、猪突猛进でも困りますので)、こういった点をチェックしてみましょうねと、个々の具体的な状况を踏まえた例を挙げながら、アドバイスを赠ることにしています。それで闻いてもらえるかといえば、やはり微妙ですが、手を拱いて见ているだけというのも无责任に思えますし、勉强は本人のことだからと达観することもできません。ささやかな抵抗です。
振り返りが不十分だと思います。勉强するのは头を良くすること、柔软で创造的な思考ができるようになることを目指しているのであって、试験に合格することは必要ではあっても目的ではないでしょう。试験で一定の成绩を上げるにはひたすら知识を集积することで対応できることも多いのです。知识を追い求めると、知っていることに自分の判断基準が移っていきます。知识があることで知っていると思い、それを理解しているとの错覚を生むのです。知识があることが仇となって、理解しようとすることを阻みます。
勉强をこなしていくことがハードになるのは、知っていてもわかっていないと気づいた时です。そこからの工夫から学びを体得します。学びつづけることでプロフェッショナル性も得られます。そのプロセスで実践し修得することが、知性を练磨する方法であり、自己省察の癖を付けることになるからです。
意识的にか、无意识的にか、ハードワークになるのを嫌って知识の集积のみに走り、头を良くする、能力を高める机会を逃していることも多いように见えます。何事も効率性と迅速性で割りきっているようです。能力を伸ばす机会はまた来ると思っているのかもしれませんが、その时の自分が恵まれる机会は一期一会だと思っておく方がよいと思います。それだけの覚悟をしてこの机会を见送り、次の机会を待つと心に期すべきです。
さて、今なすべきことです。これは具体的に定まっているはずです。自分の想いや思考が過去に捕われず、未来に遊ぶことなく、現在を直視しそこに集中しているのであれば、なすべきことははっきりとしています。今なすべきことをなさず、何をすべきかと思い悩んで、時を徒過してしまうのは、怠惰なのか、あるいは妄想に捕われているか、いずれかのためのようです。しっかりとブレークダウンさせて具体化させれば、必ず、今成し遂げることができます。そのブレークダウンさせる対象は何でしょうか? それが漠然としているときに、「今、何をすべきでしょうか」という疑問に出くわします。今はそれを明確にすべき時なのでしょう。
次回は「ステレオタイプの勉强法」です。
