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株式会社コスモスイニシア 代表取缔役社长 高木嘉幸 氏(前編)

访问日

2019年5月14日(火)

センパイ

高木 嘉幸(タカギ ヨシユキ)氏
1983年 広岛大学法学部 卒业

株式会社コスモスイニシア

访问记

株式会社コスモスイニシア 代表取缔役社长 高木嘉幸 氏

(1983年 広岛大学法学部 卒业)

広大卒业后は、「株式会社日本リクルートセンター(现?株式会社リクルートホールディングス)」に入社

高木:リクルートっていう会社は、约60年前の创业时から、高卒者の採用や男女平等採用、地方出身者の採用も一生悬命やっておられたので、そういう活动のおかげで、现在でも地方出身者がたくさんいる风土なのかもしれません。
当社(株式会社コスモスイニシア)にも、何人か広岛大学の卒业生がいますね。福井県(高木氏の出身地)の出身者と同じくらいの人数ではないかな。

―リクルートでは、创业者の江副浩正さんの経営に直接触れた世代ですか。どんな方だったのでしょう。

高木:今でいうとソフトバンクの孙社长みたいな方です。「えー!そんなことするんですか!?」という。

―型破りな方だったんですね。

高木:私が入社してしばらくしてからのエピソードですが、「近い将来太平洋に光ファイバーケーブルが通って、アメリカと日本の通信が飞跃的に早くなる。ケーブルが通ると、ニューヨークの近くに基地局を造らないといけないはずだ」っていうので、ニュージャージー州にいきなりビルをばーんと买っちゃった。光ファイバーの「ひ」の字もないときに。

全员:(惊き)

高木:买っちゃったんですけど、いつまで経っても计画が进まない。「なぜこのビルを赤字で持っているんだ…!?」となり、光ファイバーが繋がる前に処分しました。

他には、アメリカの通信卫星の何回线分かを买っちゃって、プロゴルフの解説などをされている戸张捷さんや杉并区立和田中学校で初めて民间公司から校长先生になられた藤原和博さんらを迎えて特别チームを作って、「买っちまった卫星回线をどう使うか考えよう!」というような。

私のようなサラリーマントップではできないことを、创业者っていうのは大分先の発想でやる。创业社长はすごいなと思います。

―未来が见える訳ですよね。

高木:见えているのか…!?このくらいやっても会社は溃れないだろうと思っていたのか…(苦笑)。だけど、社员たちが「こんなことをやったら会社溃れるんじゃないですか!?」と思うようなことをやると、カオス状态という言い方をしていたのですが、皆に紧张感が走って「『なんとかしないといけない』という力を出させる効果がある」とおっしゃっていました。孙さんも同じようなことをおっしゃっているようですね。

たった一人の驻在员として、オーストラリアでの勤务

―ご経歴を拝见しますと、オーストラリアでも勤务されていますよね。

高木:1990年に、オーストラリアに会社をつくるということで、最初の驻在员として赴任しました。その后すぐに日本のバブル経済が崩壊しましたが、リゾート开発を现地のパートナー公司とやり始めていて、途中まで造ってしまったものをそのまま放置して帰国する訳にはいかないので、なんとか完成させました。

そこから5年间は黒字化できなかったのですが、努力を続けて6年目で黒字化できました。そのうち日本の人は私のことを忘れてしまったんじゃないかと。たった一人の驻在员になってしまって(笑)。

―驻在员は増えなかったのですか。

高木:増やせないんですよ。日本はバブル経済が弾けて大変なので。ただ、现地の公司のパートナーがいましたから、その人たちと共同でやっていました。そのまま、なんと19年もいることになったのです。

―日本人のお客さんを相手にしようという投资プランだったのですか。

高木:そうではありません。ヨーロッパや世界各国から、オーストラリアに自然を求めてくるような人がメインターゲットでした。1992年に世界自然遗产に指定された岛なので、もう手を入れられないのですが、ここだけはリゾートをつくっても良いという土地があり、そこには屋久岛にあるような杉の木があったり、海でクジラが泳いでいるようなところで、大自然を体験できるんです。当时の日本人向けという场所ではなかったですね。

―それを発想したのはどなただったのですか。

高木:江副さんの次の社长として任命された池田友之さんという方です。その方が、総合不动产业というからには住宅の开発だけでなく海外の事业やホテル开発なども手掛けていくのだという方针を出されて、アメリカ、オーストラリアに进出するという流れの中でした。

―日本人相手に売って储けるではなく、现地の不动产业ということですね。

高木:その流れで、今もオーストラリアのシドニーで住宅の开発事业なども行っているのですが、海外での事业は决して日本のお金やマーケットではなく现地のニーズに対応するようなものをやらないと长続きしないので、そのことは强く意识し継続しています。

―19年もオーストラリアで、责任者を続けることができた理由はありますか。

高木:あのまま日本にいると、1991年顷にバブル経済が崩壊して、その后始末が大変だったでしょうから、その涡に巻き込まれていたら、今この会社にいないと思います。

でも色々苦しいことはあったんです。

当时の社长に言われて年に1回日本での役员会に出席する际には、かなり楽観的な20年计画を持っていっていました。要は、「まだお金が足りないから、もう少し出してください」というのが、何年も続きまして。そのうち「毎年话が変わるではないか!」などと言われたりもしましたが、现地も大変なので、何とか説得して、「わかった。もう少し支援するから、早く帰ってしっかり取り组め!」と承认顶くことが度々ありました。

私の30代には色んなチャレンジがたくさんあったので、気が付いたら何年も経っていたという感じです。

―大きくいうと経営というもののチャレンジですよね。やりがいもあったということですね。

高木:亲会社もあるし、私もいち社员ではありましたが、中小公司の代表みたいな感覚でした。しかも海外拠点での経営の経験はとても贵重だったと思っています。

不动产の仕事では、土地があって、その上に何かを造って、そこを利用してくれる人がいればその事业が流行ります。取引额も大きく、役所に认められないと事业化できないなど、地元の利害が非常に大きく関わります。そのため、国外からパッとお金だけ持って来たような人がそう简単には踏み込めないんです。

アメリカのトランプ大统领も不动产王と言われていますが、彼がロンドンでもパリでもどこでも成功したかというとそんなことはないですよね。どこかの国で成功した人が同じものを色んな国に展开しようとしてもそう简単ではなく、必ず现地の信頼できるパートナーがいないと仕事ができないんですよ。そういう方といかにうまくやっていけるかが、公司の驻在员として大事なことです。

私がオーストラリアに行った际、现地のパートナー会社が「日本の公司の驻在员は4~5年で帰国してしまうだろうから、その间に気持ち良くさせていれば、自分たちの言うようにやってくれるのではないか」という考えが透けて见えました。

―それでどうされたのですか。

高木:「私は、帰りませんよ!」と伝えることで、相手の考え方が変わると思いました。日本から连れて行った妻がオーストラリアを大好きになってしまって「私は日本にはもう帰らない!」と言うものだから私も付き合わないといけない…というような事情もありました(笑)。

一同:

高木:结果、それが伝わってから、现地のパートナーとの関係が平等になっていきました。大使馆や総领事馆の方でも大体、任期が2~3年。英语圏の国に行っているのに英语を常には话さずに帰国される方も多いと思います。日本人会や日本商工会という组织に属する方たちとの情报交换の方が容易なのでしょう。现地に踏み込んで人脉を作ることは短期间では难しいと思っている方も多いようです。私が思うに、驻在员として赴任したら、最低10年。10年はしっかりやって、现地の人と何かできるまで帰国はならぬ…というような方针が必要ではないかと思います。

10年滞在すれば、子どもも现地に驯染みますよね。本人だけでなく家族にとってもそれはよいことだと思います。

―高木さんにもお子さんがいらっしゃいますか。

高木:3人います。全员オーストラリアで生まれ育ち、全员オーストラリアパスポート所持者になってしまいました。妻も同じく…。

一同:

高木:当社で、そこまで长く海外驻在した人もいませんし、リゾート开発?运営という仕事をやった人もいませんでしたので、大変特异な体験をさせていただいたと思っています。

株式会社コスモスイニシア 代表取缔役社长 高木嘉幸氏
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なるべく自分らしく生きるように(后编)

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