だいぶ前のことだが、同僚が、バイクでツーリングに行ったときのことを話してくれたことがある。ワインディングロードでどうしても自分についてこれなかった仲間に、休憩の時にコーナーリングのコツを教えてあげたそうだ。その解説がよほどうまく、また相手にも素質はあったのだろう。休憩後のことはやや後悔気味に語っていた。「After that, I couldn't shake him off.」
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子供のとき、少しバイオリンを习っていたことがある。まったく物にならなかったが、得难い経験もした。
一时期、都合で别の先生に习うことになった。厂先生だ。当时、僕はビブラートがうまくできなかった。弦を押さえる左手をゆらゆらと动かして音程を微妙にゆらす、あれだ。厂先生は、ビブラートができるようになるための练习の仕方を僕に教えてくれた。ところが、その练习内容が「え?ホントにこんな変な练习でいいの?」と思うような変わったものだったのだ。半信半疑だったが、とにかく言われたとおりの练习をやってみることにした。すると、惊いたことに、本当に惊いたことに、じきにできるようになってしまったのだ。衝撃だった。
これは獲得したい能力と訓練内容との関係が自明でなかった例だ。できるようになりたいことは明白だが、どのような訓練をしたらいいのかがわからないことは、ままある。自分ではうまくできるけれど、他人にどう教えたらいいかわからないことも往々にしてある。だから、手本を見せるだけでは、一般には教えたことにならない。プロのスポーツ選手の技をいくら眺めても、普通はできるようにはならない。日本语が出来ない人の前で得意気に日本语をしゃべってみせても、相手の日本语力は微動だにしない。
厂先生のケースが寻常じゃなかったのは、具体的な训练の仕方を教えてくれたことだ。练习内容と获得したい技能との関係は自明ではなかったのだが、结果として、それはできるようになるための正しい训练だった。厂先生こそは真の教育者だと、子供ながら心底敬服した。
単に繰り返し试みれば身に付く类の技能も、あるにはある。しかし、やりたいことの难易度と当人の资质次第で、いずれは壁にぶち当たる。それを乗り越えるための训练方法は、普通はよくわからない。よい教育者とは、どのような训练をしたらできるようになりたいことができるようになるかを教えてくれる人だ。ちょうど同じことが、田坂広志着「なぜマネジメントが壁に突き当たるのか」という本にも书いてあった。一流のスポーツ选手が頼りにするコーチとは、そういうアドバイスができる人だ。
では、できるようになるための训练方法はどうすれば见出せるのだろうか。「正しい训练の仕方さえ教えてもらえればできるようになれたはず」の人をできるようにする训练。
厂先生が教えてくれた练习内容は意外で、「正しい训练である」かどうかはわからなかった。しかし、「明らかに间违った训练だ」とはいい得ないものだった。つまり、练习内容は「意外」ではあっても、「论外」や「荒唐无稽」ではなかった。ささいなことかもしれないが、いい训练方法を探り当てる上で、まずこの点は重要かもしれない。
では、その先はどう考えたらいいのだろう。もとより、一般解はなかろう。想像がつくのは、论理的に导き出せるものではなさそうだということくらい。だが、そのことに気づくと、逆に浮かび上がってくることがある。逆説に満ちているが、だからこそ锻えるべき力は???
(2011/6/21)
