レーザ、光、フォトニクス分野における研究者はその最先端の研究成果をCLEO(Conference on Lasers and Electro-Optics)において発表する。光分野でのノーベル賞受賞者の多くや日本からもレーザのパイオニア達が発表してきた光分野における最も権威と歴史を有する国際会議である。光分野ではCLEOを発表することがステータスになっており、CLEOから派生したOFC(Optical Fiber Communication Conference)においても世界中のトップクラスの研究成果が発表される。CLEOは発表数を限定しているため、近年では日本やアジア、オセアニアからの発表者のためにCLEO Pacific Rimが開催されるようになり、今回初めてPacific Rimでの発表を行うために初めてオーストラリアに行ってきた。日本からは10時間程度で行くことができ、アジアナ航空を利用すれば広島空港から韓国の仁川空港経由で東京に行かなくてもオーストラリアに行くことができる。広島から仁川について10分でオーストトラリアの出発ゲートに移動できる極めて交通の便のよい所であった。海外の空港をみるたびに日本の空港の移動の不便さを感ずる。今回台風がきており、JALやANAは成田から広島行きを欠航したが、アジアナは広島行きを欠航しなかった。悪天候時の操縦技術も日本の民間パイロットより優れているのではないかと感じた。次回のCLEO Pacific Rimは京都でおこなわれるとのことであるので、ぜひ次回も参加してみたいと思った。
フーリエ変換は電気工学では広く使用される応用数学であるが、光学分野においても広く用いられてきた。その中でスタンフォード大学のGoodmanとその弟子であるアリゾナ大学のJack Gaskillが特筆すべき研究を行ってきた。1995年SPIE presidentを勤めた Gaskillは空軍の戦闘機パイロットとしてベトナム戦争を経験してきた。彼は授業で冗談を多く言うのが好きであったが、あるとき真面目な顔で"Life is hard, but after we know life is hard, life becomes easier"といったことを覚えている。
アメリカの大学にはアメリカ人以外に多くの人种が教员や学生として勤务している。イラン、トルコ、ベイルートなど纷争が絶えない中东地域からも多く学生が来ており、トルコの学生は夏休みになると军事教练のために数ヶ月トルコに帰らなければならない。日本には徴兵制度がないため、あまりぴんとこない。アジアからの学生は台湾、韩国、中国が多いが、中国以外のアジア诸国やヨーロッパ诸国には徴兵制度や社会奉仕义务があるため、多くが2年程度大学を离れてから大学院に进む。あるロシア人の博士课程学生は「徴兵でこのままだとチェチェンに送られて戦死するのが落ちだ」といってアメリカに来たといっていた。戦前の日本でも徴兵制度があったため他のアジア诸国やヨーロッパ诸国と同様であったことが、现在の日本人の感覚では奇异に思えるかもしれない。
日本の大学院に进んでも登校拒否になる学生がいると闻く。日本の大学に进めるだけの経済的余裕が両亲にあり、学力に优れた学生がなぜ登校拒否になるのか理解できなかった。最近では大学院に进めば2年间游んでいられ、修士课程での业绩は全く考虑されないで一流公司に就职できると多くの贤い学生は考えているとのことである。また、日本的な叱咤激励を大学に入学するまでされた経験がないため、厳しく指导されると自分の人格が否定されるように思う学生が多くとも闻く。一般に「自分に甘い人间は他人に厳しい」倾向もあるので指导方法にも问题はあるが、日本に外国のような兵役义务があれば、厳しく指导されたくらいで学校に来なくなる学生も少なくなるのではないかと思う。また、一度社会にでれば、大学とは比べられないくらい厳しく上司から指导されることもあるし、顾客先から骂倒されることもあるであろう。挨拶や话をしなくても问题が起きないのは大学の中だけである。海外のように兵役や社会奉仕义务もなく、优しい先生达のなかで学部修士6年间生活を続ければ立派な挨拶のできない人间になれるであろう。
アメリカの理工系大学院に进む学生はほぼ全员が笔丑.顿.に进むことを希望するが、笔丑.顿.研究に进む前に大学院过去2年间にわたり修得した授业を全て网罗する资格试験があり、これに合格しないと修士のみ与えられ退学させられる。したがって、アメリカの理系大学院において最终学歴が修士であることは日本とは异なる印象を与える。この為に资格试験前に多くの学生は精神的に追い込まれる。大学に来ないことはありえない状况もある。
日本の大学の卒業式の式辞は眠気が襲うような話ばかりであるが、スティ-ブ?ジョブズが2005年にスタンフォード卒業式で行った有名な式辞を聴くと、大学に学べることの幸せさを感じるであろう。ジョブズが生まれる前に、育てる状況が厳しい産みの親は労働者階級の貧しい夫婦に養子に出すことを決意する。しかし、産みの親はその際の条件として大学に進ませることを契約書に記入していた。ジョブズが学んだ大学半年間の授業料が労働者階級の両親が貯金したお金の全てであり、彼は考えて大学を中退せざるをえなかった。大学を6ヶ月で中退しても空き缶集めをして現金に換えながら、ホームレスとなり密かに2年近く大学で興味のある講義を聴講した。その際に受けた授業内容が将来のアップルコンピュータの美しい字体の原型となった。自宅の車庫で二人だけで始めた会社を成長させたがその後、自分が作った会社の役員会議で解雇されNEXTを作った。低迷するアップルはNEXTを買い、ジョブズは再度アップルに帰った。もしかするとコンピュータも現在のようなグラフィックな字体とは遠い存在であったかもしれない。これらの点と点が結ばれることは自分自身も含めてだれも予測できなかったが、最後に自分がやった仕事の点が結ばれたと話している。明日死ぬかのしれないと毎日を仕事に取り組めば、他人がどう思おうが他人がなにをしていようが気にしている暇は無いはずであり、自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持って行動することを述べている。最後にStay hungry, stay foolishといって締めくくっている。
http://www.youtube.com/watch?v=geoE_oKzISA&feature=related

アメリカではベトナム戦争や2000年滨罢バブル崩壊、2001年の911テロリスト攻撃とイラク、アフガニスタン戦争、2008年不动产バブル崩壊など多くの経済的な変化が频繁に起きるため、いつでも解雇の恐れがある。公务员も例外ではなく、子どもが通っていたツーソンの高校の教师は1校で20人近くがショック后に解雇され、现在でもツーソンの警察官や消防队员の多くも解雇され続けている。アメリカの大学に勤める知り合いは、アメリカの公司に研究者として勤めていたが、滨罢バブル后にある日出勤するとその日は笔颁にログインできなくなっており、その后2时间以内に私物をまとめて出て行くように言われ解雇されたということである。日本のような労働组合がないアメリカでは全てが自由竞争であり、あらゆる场所で自然淘汰がなされている。物を作らない国家の多くが金融取引だけで国家経済を発展させようとした结果がこのざまである。
911テロリスト攻撃直后にはイスラム教徒のメールは全て监视下に置かれ、无差别に拘束されて寻问されるとの噂が広まり、キャンパスから一斉にイスラム教徒の学生が消え、多くが帰国していった。中东の优秀な学生の多くを日本の大学が获得するチャンスであったが、日本にはその気配はみられなかったし、现在も同様である。
リーマンショック直後には、アリゾナ大学を含めて多くの州立大学は財政危機になり、事務員の多くが解雇となり、教員もテニュア凍結や新規採用凍結措置がなされてきた。テニュア取得困難になったことは間違いなく、これが原因かどうか解らないが2008年以降光科学カレッジの教員をやめて大学を去ったテニュア取得前の教員も数人いた。ちなみに、2004年ノーベル経済学賞を以前受賞したVernon Smithはアリゾナ大学に25年間勤務し、ノーベル賞受賞の研究をアリゾナ大学でおこなったが、2002年に研究費を獲得できなくなりアリゾナ大学を去り他大学に行かざるを得なかった。テニュアを取得していても自分の居室や実験室の使用料金、学生への給料は外部資金から支払わなければ成らないため、ノーベル賞受賞するほどの研究者であっても、研究費を獲得できなければ大学を去らなければならない。まさしく、Life is hardである。
現在、JSPS外国人特別研究員の劉さんが私の研究室に勤務を始め、最後のラストスパートを彼と共に研究できるため、研究の動機付けが近年非常に高くなった。その一人の劉さんは60本近くトップジャーナルに論文報告を行ってきた研究者である。ようやく研究を推進するための環境が整った中で、8月にアメリカの学会場所で私の所属した研究室に勤務していた研究員や以前リサーチプロフェッサーであった人達と再会した。現在は全てが他大学で教員を務めていた。その中の一人Bernard Kippelenは Georgia Techの教授になっており、日本で被害に遭った人たちの冷静な対応についてアメリカ人は驚いていると言っていた。彼はアリゾナ大学にいるときは、色々と癖のあることを言ってきたが、1990年代からNatureやScienceに論文投稿をし、フォトリフラクティブポリマを使用したフォトニクス分野のブレークスルーをなしてきたトップ研究者である。現在ではフォトリフラクティブポリマを使用した「動く3Dフォログラム」も実用化前まで研究されている。
http://www.uanews.org/node/35220
彼はアリゾナ大学でテニュアをとり多くの外部資金を獲得してきたが、大学研究施設の完成が数年遅れたため、実験場所に困り他の共同研究をする2教員達とまとめてGeorgia Techへ移っていった。彼は私が日本の大学で勤務していることを喜んでおり、日本で地道に研究成果を積んでゆくことがベストだとアドバイスしてくれた。アリゾナ大学の時には考えられないほど円くなっていたので驚いた。アメリカの大学では研究者同士や学生との間でも大声で怒鳴りあうような議論をする場合もある。日本の一部の大学のように上下関係が決まっていて、一方的に上から下へ怒鳴るのではなく、研究に関して立場は全く関係なく議論が繰り広げられる。彼はフランス人気質からか議論を望むタイプであったので、あるときは他のレバノン人研究者や中国人研究者と対立することもあった。日本では研究室は家族のような関係であるため想像できないが、アメリカでは日々が戦いであり隣の部屋まで白熱した議論が聞こえることがある。
アメリカ経済崩壊后の再建は研究成果に基づく新规起业が支えてきたが、日本での研究は暇つぶしの道具くらいにしか思われていない。その根拠として事业仕分けによる研究打切りや震灾による科研费3割カットがある。私の研究への动机付けがかなり落ちていたが、アメリカで活跃する叠别谤苍补谤诲から激励され私も研究に対する情热が再度あふれてきた。现在のような制约された研究环境であと10年以上仕事をしろと言われれば体が持たないが、数年であれば可能である。日本も戦后はアメリカのように动乱期の连続であったが、それがために経済が成长した。贬耻苍驳谤测でいることは必ずしも悪いことではなく、むしろ常に満腹状态で全てを自动的に与えられ安住している方が精神的に人间を堕落させる。贫しい间は皆が工夫をして何とか生き延びようとするが、経済安定期にはいい加减な仕事をしてすごしても多くがそれなりの给料をもらって年金生活を迎えられるようになる。灾害は日本の悲剧であったが、灾害復兴は日本復兴の起点になるはずである。叠别谤苍补谤诲は来日したこともあり、戦后日本が復兴したように、震灾后も日本が復兴することを信じているともいってくれた。

海上自卫队の输送鑑「おおすみ」(呉)から灯油や简易トイレを石巻市内へ运び込む输送用ホバークラフト尝颁础颁
3月20日午後、宮城県石巻市(早坂洋祐氏撮影) http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2011/03/20/hover/ 産経新聞より
「老人の老人による老人のための社会」が日本社会であった。既に定年を迎えた日本の労働者や公务员はそうであったが、现在の学生はこれまでの日本とは全く异なる混乱の中で生活して行かなければならない。そのためには、公务员になるか、あるいは自分を锻え上げ、生き残るために必死になって何かをつかまなければならないであろう。したがって、大学をさぼってもそれが将来の人生で决して点と点を结ぶ直线にはならない。休んで人生を无駄にしている暇は无いはずである。
最后に私自身も日本の大学で研究できたことを感谢するとともに、一学徒として残された人生と仕事に取り组みたい。
(2011/9/20)