麻豆AV

第146回 「学ぶことと思うこと」 藤島 実 (2017/06/07)

本専攻では所属教员に2回连続してコラム执笔の机会が割り当てられており、今回は私の研究室の学生の顺番です。しかし、教员として学生さんにお伝えしておきたい思いがいろいろあるので、私が今回も担当します。(ごめんなさい)
さて、最近、

と题するコラムがアゴラに掲载されました。タイトルの通り、詰め込み教育の効用について书かれているのですが、その一节を绍介します。

 

“人间が作り上げる独创的な芸术なども、既存の材料の组み合わせだといわれています。モーツアルトが少年时代に父亲から(モーツアルト以前や同时期)の音楽を叩き込まれたこと、代表曲「レクイエム」も前の时代の作曲家の曲に似ていることはとても有名な话です。”

“このように考えると、「子どもたちの自由な発想を伸ばす」という目的で「学习内容のインプットを减らした「ゆとり教育」は、「自由な発想」の元となる材料を少なくしているので、逆の结果を招いてしまったのは当然のことだったのです。”

一方で、第30回サラリーマン川柳の大赏は

ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?

でした。この川柳はコラムの主题と一见离れますが、若者の気持ちを代弁しているように闻こえます。「ゆとり」という言叶は、もともとの意味を离れて批判的な文脉の中で用いられることが多くなりました。もちろん、考えるべきことは、「ゆとり」がよいのか「詰め込み」が良いのかではありません。ここで、有名な论语の第2章「為政第二」の第15が思い起こされます。

学びて思わざれば则ち罔(くら)し、思いて学ばざれば则ち殆(あや)うし(学而不思则罔、思而不学则殆)

詰め込み教育に対する反省は「学びて思わざれば则ち罔し」であった一方で、ゆとり教育に対する反省は「思いて学ばざれば则ち殆うし」に当たると思います。学ぶことと思う(考える)ことはどちらかに重点を置くかということではなく、両者が重要だと论语では教えられているのです。
一方で、最初に绍介したコラムの内容からは、学びと思いの顺序の重要性が読み取れます。创造性は知识の组み合わせだとすると、知识がなければ创造性は生まれません。まず学びなさい、そして十分な知识が身に付いたら思いにふけりなさい、ということでしょう。
时として、目の前の(つらい)勉强の目的がわからなくなることがあります。内容が専门的になればなるほど、すぐには何の役に立つかわからなくなることが多くなります。しかし、あらゆる知识は、将来たまたま役に立つ可能性があります。たとえそれが失败の経験でもです。もちろん、どの知识の组み合わせが将来役に立つかは谁にもわかりません。しかし、多くの知识を身に着けていれば、组み合わせて生まれる创造性の选択肢は将来格段に増えることになります。それは未来のあなたの生活を、そして社会をきっと豊かなものにしてくれると私は思います。

(2017/06/07)


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