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来访日
2019年9月2日
センパイ
豊田 庄吾(トヨタ ショウゴ)氏
1996年総合科学部卒业
リクルートにて人事、人材育成会社ウィル?シードにて电通、叁井物产、野村证券、东京叁菱鲍贵闯、国交省などの研修讲师やトヨタの教育颁厂搁のプログラム作成等を务める。また、経済产业省の起业家教育促进事业で、全国300校以上の公立学校にて起业家精神育成の授业実绩あり。
隠岐国学习センター


※隠岐国学习センターが所在する海士町について
岛根県、隠岐诸岛の「中ノ岛」にある人口约2,200人の海士町は、岛外からの移住者が10年间で约500人、财政破たん寸前の状态からの回復、廃校寸前の高校に入学希望者が杀到するなど、まちづくりの先进地域として、全国からの注目度が非常に高い自治体である。
公立塾隠岐国学习センター センター長
豊田庄吾 氏
(1996年総合科学部卒业)
来访记(前编)
―いわゆる元リク(元リクルート)ですよね。元リクって独特の存在感があると思うのですが、ご自分で定义すると?
豊田:社是にあった「自ら机会を作り出し、机会によって自らを変えよ」という、自分で世の中をよくしていきたいというマインドは染みついていると思います。
― ―口で言うのは简単ですが実际はどうやって身につけるのでしょうか。
豊田:结婚情报誌『ゼクシイ』を例に挙げると、自分たちで结婚式を作るという文化がなかったところに、手作りの结婚式が出来るという新しい结婚のあり方を提示しました。事业を作ることで世の中に新しい形を提示していくことを経験した、というところでしょうか。先辈や上司からは「で、お前はどうするんだ」と切り替えされるので、常に自分で考える文化があったと思います。
―なぜ、辞められたのですか。
豊田:営业をやりながら、お客様に対するベストソリューションが、リクルートのサービスだけではないなと思い始め、ダブルワークで奥贰叠の仕事をしていました。で、お客さんによっては、リクルートのメディアに広告を出すよりは、自社でホームページを作ったりマーケティングをやった方がいいんじゃないかと思い、29才の秋に辞めました。
―2000年顷だと、まだインターネットの黎明期ですが、奥贰叠を作る技术などは、自分で学んだのですか?
豊田:大阪时代に、自主勉强会などで、クリエイターやエンジニアとつながっていたので自分自身では制作してなかったですね。当时、受讲料6万円を払って、ある公司のプレゼンテーション研修を受けに行き、えらく感动しました。その素晴らしいノウハウを友达に伝えなくては、と思い、友达をたくさん集めて勉强会を企画しようとしたのですが、全然集まらなかったんです(笑)。
自分が素晴らしいと思ったことを相手に全然伝えられないのが悔しかったのですが、参加者からは好评でした。そうであれば小さくてもいいから続けてみようと、毎月约30人参加して4人ぐらいがプレゼンする、という勉强会を広大卒业生が中心になって企画、运営していました。
―その时の広大の仲间とは、どういうつながりでしたか。
豊田:総科や工学部の仲间などが大阪に何人かいたんです。
大学时代は、一年目が千田、二年目から西条に移転した时期でした。ちょうどその时、全学のオリキャン(オリエンテーションキャンプ:大学主催の新入生研修合宿)がなくなってしまったんです。「こんなにいい文化、伝统を先人たちが作ってきたのに、ここで途絶えさせるのは絶対によくない」と思いました。
当时1年生でしたが、学部长に「総科はなんとかオリキャンを続けたい」と诉えかけました。学部长の了解を得て、続けることができるようになりました。すると、「総科がやれるんだったら、俺たちもやれる」と他の学部にも広がっていきました。そういう中でつながっていった仲间たちです。
―ご出身はどちらですか。
豊田:石炭の町、福冈県大牟田市です。祖父は大牟田で青果市场を作りましたが、スーパーマーケットも早い时期から手がけています。父亲も商売人で、喫茶店を数店舗経営していました。言叶も通じないのに台湾に行って、台湾で喫茶店を立ち上げようとしたりとか、商売热心でチャレンジングな父亲したね。
―ところで全国に过疎の地域はたくさんあるけど、なぜ「海士町」に移住されたのでしょうか?海士町の魅力や、行かれたきっかけはなんでしょうか。
豊田:岩本悠という友人が、先に海士町に移住して、教育に関わっていました。彼は、ある雑誌が选ぶ「日本を立て直す100人」に选ばれて、ダルビッシュの横に掲载されていたような人物です。久しぶりに东京で会った时に、「海士町の人口は2,500人で、一年间に若者が100人移住してくる」と言うので、僕は、「彼が移住したから若者が年に100人も移住するんだろう」と思っていたのですが、そのときは「来たら分かる」と言うだけです。
当时僕は、ウィルシードという、大手公司や官公庁、学校の研修を手がける会社に所属していました。学校に出向いて、ビジネスゲームをやりながら、社会に出て必要となる力を自分たちで学ぶ、という体験型のプログラムの学校部门の责任者として、全国の自治体を回って、年间600クラス、2万人の小中高の子供たちに授业を実施していました。そんな时に彼から「岛に授业をしに来てくれ」と依頼されたんです。
2008年に初めて岛に行き、中学校と高校に出前授业をしました。その时、彼から「実は、高校が少子化でつぶれそうなんだ。高校がなくなってしまうと人口流出が激しくなるので、なんとか高校を残したい。プロジェクトを立ち上げたいから一绪にやらないか」と言われました。
そこでは、丁重にお断りしました(笑)。
― 一同笑。
豊田:当时は、全国の自治体とつながりもあるし、日本のためにがんばりたいと思っていました。麻布十番に住んでいて、自分でミュージカルをやったり、プライベートもすごく充実していました。
それから半年経って、彼から「60人に会ってみたけどいい人材がいないから、もう一度来てくれ」とまた声がかかり、改めて彼の话を闻いて、「んじゃ、移住するわ!」って言っちゃったんです。直感ですね。
―ご自分で関係していた多くの自治体と隠岐が违う部分はどういうところだったのでしょうか。
豊田:小学校2校、中学校1校、高校1校という适度なサイズ感ですね。それからスーパー公务员とか変态公务员(笑)って呼ばれるような、各自治体に1人か2人はいるイノベーティブな方々が、海士町には当时4~5人いらっしゃったんです。おかしいんですよ、海士町(笑)。「ここなら、なんかできるな」という匂いがしました。当然、岛の人たちの本気度もすごかったです。
ふるさと大牟田の高校时代の同级生と话しをする机会があるんですが、みんな「若者は出ていくし、年寄りしか残っていないし、ビジネスを立ち上げてもうまくいかないし、大学や公司の诱致もできない」と言い訳ばかりするんです。ウィルシードで出会った自治体にも、言い訳ばかりする大人が少なからずいました。
自分は、というと、都心に住みながら、地方の人に向かって「チャレンジするのが大事だ」と言うだけなんですね。「自分の言叶が軽いなあ」という気持ちがぬぐえませんでした。一番不便な场所でよい事例を作ることができたら、大牟田の仲间に「大牟田は陆でつながってんじゃん。こんな不便なところでできたんだから、絶対できるよ」って言えるんじゃないかと。
半分は岛のためであり、半分は自分の故郷のためという気持ちです。海士町でうまくいけば、おこがましいですが、日本のためになるんじゃないかなと。
岛には映画馆もコンビニもスーパーもないし、信号も1个しかありません。病院もなくて诊疗所だけ。眼科がないから、コンタクトをなくしたら、しばらく片目で过ごさないといけない(笑)。本当にものすごく不便なんです。だけど、惹かれるものがあるんです。地方创生大臣は就任されると必ず来るし、大手公司の社长はじめ、いろんな方が岛を视察に来ます。
―成功事例を作って、日本全国に広める、ということなら、そろそろ帰ってもいい顷じゃないですか。
豊田:いやいや、まだまだ岛でやることがあります。外からは见えにくいですが、现场は课题だらけですし、今でもうまくいかないことだらけです。だからこそ自分たちでは、「成功事例」ではなくて「挑戦事例」と呼んでいます。ただ、本当に少しずつではあるのですが、社会全体にもインパクトを与えられるような成果もでてきたので、他の地域への広がりを意识した取り组みをやっていこうという话にはなっています。そんな中、ここまでを振り返ると、岛の人たちに応援していただいて、今があるという感覚が强いので、次のステップに进むべく、外へ出ようというつもりはなく、この岛で岛の人たちと一绪に挑戦し続けたいなと思っています。
おかげさまで学校は、クラス数も人数も倍になりました。当时、岛根県内で下から2番目の偏差値で、部室が燃えたり、海にバイクや车が沉んだりするような学校だったんです。その学校に、今は、日本全国のみならずドバイや上海からも生徒が入学して来るようになりました。
―ドバイから日本人がくるんですか?&苍产蝉辫;
豊田:はい。国内にとどまらず海外にもいい噂が広がって、ありがたいことに、海外からも生徒が受験してくるようになりました。そうした中、现在では岛外からの応募が多く、受け入れ人数に制限をかけたら、どうしても子供を入れたいというお母さんが、旦那さんを东京に置いて子どもと一绪に移住する、といった教育移住も起きています。
今后は、故郷の大牟田に贡献したいという気持ちと、海士町に贡献したい気持ち、それから、自分が関わってきた、自分にとって大事な人たちや地域に贡献したいという気持ち、この3つの観点で、もっともパフォーマンスが発挥できる场所でやれることを模索しながらやっていこうと思っています。
そう考えると、今の自分の中での答えは「海士町にいるのが一番」です。海士町はオセロの角っこで、そこが良くなると、パタパタパタっと他にも影响が与えられるポジションだと思っています。トップランナーとして、进み続けていかないといけない、というのは、苦しいですけどね。
公立塾隠岐国学习センター センター長 豊田庄吾氏
【后编】はこちらから↓
隠岐発、地域と混ぜる教育 ~”ないものは、ない”に込められた想い~(后编)